大谷 修一

SHUICHI OTANI

加盟開発チーム 海外情報室 シニアアドバイザー

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PROFILE

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株式会社ジョンソンホームズ FC事業部 加盟開発チーム 海外情報室 シニアアドバイザー

1955年10月2日生まれの未(ひつじ)年、天秤座、B型 エニアグラム:2の献身家 7の楽天家 6の堅実家

>>エニアグラムとは?

札幌北大病院で生まれ、北海道植物園の西側で育つ。

得意なのはアメリカ英語、ドイツ語、韓国語、中国語

小学校時代から母親が英会話の家庭教師を毎週金曜日に呼んでいて、その頃は逃げてばかり。

高校時にカトリックの女子高の講堂で英国人演じるシェークスピア劇に感動、洋画に感動、洋楽に感動、おまけに叔父がアメリカに留学経験、ほかの伯父がJALのハワイ支店長、大叔父がアメリカで教授職などなどアメリカへの憧憬の念が強くなり、大学時代にKDD(国際電信電話局)に短時間制職員として雇われ、簡単な韓国語、中国語を習得。

得意なのはアメリカ英語、ドイツ語、韓国語、中国語の順です。

もともと海外志向が強く、異国文化や人や多様性への理解力に長けているのが語学力以上に関係性を築く能力があるのではと思います。

一生青春を座右の銘で頑張る6人の孫の孝行爺を自認します。

スキル(資格や語学)

  • 経営大学院修士(M.B.A)
  • 英語
  • ドイツ語
  • 韓国語
  • 中国語

生まれ~M.B.A取得まで

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小学校は今はもうない(統合化された)大通小学校

小学生の時のエピソード:

①瞬足は履いてなかったが足袋での小学校最後のリレーの最終走者で優勝!じつは1年生と4年生に滅茶早い児童が居た。

結果、運動会優勝旗を授与してもらい、親は泣いて喜んでいたが、「俺、なんもしてねぇ!」の複雑な心境。

②学校を代表してすっげぇ頭のいい女子と当時の北海道知事の堂垣内知事と面談。

多分、私は頭は追いつかないが、足では追いつけない評価で選ばれたと思う。

ちなみにその次の知事は衆議院議員になった小学校~中学校~高校まで同じコースの横路孝弘であった。

大学だけが横路さんは東京大学で私は東京の大学。

明治時代だったら黒田清隆と接見したと同じだぞとおやじに言われたような気がする。

黒田清隆がどんなにお偉い方かと知ったのは大通公園10丁目のケプロン像が出来た時。

それもずうっとクラーク先生と思ってた。

兼近に近いチャラ男キャラだったかも。

中学校は越境して自宅から4キロほど南の啓明中学へ。

学年の440名(11クラスあった)の50名は北海道屈指の札幌南高校へ進学するほど頭のいい奴が揃っていた。

学年最初の学力試験で35番だったので、油断してバスケットに専念、よって卒業時は100番台に落ち込み、札幌西高校に拾ってもらう。

札幌西高校で山地に出会う

制服自由化にした遊び好きの生徒会長と同期だったのが災いして、3年時の学校祭後に若気の至りの深夜帰宅(実は早朝)で10日間の停学を食らう。

母を泣かせたのは今も後悔している。

ただ、停学中に父は「煙草も酒も卒業してからにしろ、以上!」に感動したものだ。

そのとき社長の山地章夫は同期であった。

社長はうまく逃げた。

大学生活と「落語研究会」

大学はW大学を目指したが、停学のせいにしよう。

内申が悪く受け入れてくれず、神楽坂を越えてH大学に落ち着いた。

落ち着きすぎて落語研究会に入部。

先輩と歌舞伎部の女形を取り合って負けて退部。

結局、前座で終わった。前座名は田町家君が代。

海外留学とM.B.A取得

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後に海外留学を目指すパトリオットに目覚める。

同期の江川卓君はK大学落ちて学友となるが、彼の人生はどこ行っても担保されていた。

ろくに勉強せずにバイトに精を出し、4年間で当時(昭和53年)200万を私費留学資金として貯め込む。

ためちまったので押し出されるように大平洋を渡りアメリカ合衆国東海岸南部テネシー州の州立大学の経営大学院に籍を置き、もともと出来が悪いので3年半かけて経営大学院修士(M.B.A.)を取得する。

前職~ヤマチユナイテッドでやってきたこと

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アメリカから帰って来て、薬よりも「汗の成分の飲料」と「メガネが落ちる飲料」で有名な製薬会社にお世話になる。

医薬情報担当者なる当時は医者にへこへこしていた営業から始まり、新薬開発部、フランクフルト研究所、ドイツ室、国際部EC担当を経て、生まれ故郷の札幌に戻る。

  • 34歳 ジョンソンホームズ 営業
  • 37歳 ヤマチコーポレーション 営業企画部
  • 38歳 カナダのFRP窓メーカー「アルタサーム社」と独占契約締結
  • 39歳 北米型住宅FCシステム「New Englands」開発参加
  • 40歳 カナダ最大の木製窓メーカー「ローエンウィンドー」の輸入開始。ヤマチ北米視察研修ツアー企画開始
  • 41歳 アメリカからの家具輸入開始
  • 44歳 同 国際部(ジャパンゲート)立ち上げ 国際マッチングビジネス模索
  • 46歳 同 FC本部 加盟開発 経営支援SV 国際部兼任
  • 47歳 インターデコハウス海外研修企画開始
  • 48歳 ニュージーランド屋根材メーカー「メトロタイル社」と独占契約締結
  • 49歳 米国アクリル系スタッコメーカー「オメガインターナショナル社」と独占契約締結
  • 50歳 スペインデザイン塗り壁メーカー「オザカ社」と独占契約締結。ドイツの大型テント「ローダーHTS社」からの輸入開始
  • 51歳 カナダから樹脂サッシ製造ライセンス契約 スタイルテックとして販売開始
  • 54歳 メトロタイルJAPAN 責任者(ヤマチとニュージーランド屋根メーカーとの合弁)
  • 57歳 オメガプロダクトJAPAN 責任者
  • 59歳 ジョンソンホームズFC事業部 
  • 63歳 ヤマチグループ海外研修企画開始

今に至る

FC支援に関わって

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住宅業界に30年以上も身を置くといろいろなコトが見えてきます。

1980年~2000年までは住宅業界は景気の波に乗り乗りで海外ライフスタイルやデザインを訴求した「国際ロマン派」とハウスメーカーの真似をして安定を図る「国内保守派」が跋扈していました。

ヨーロッパ型規格住宅「インターデコハウス」誕生

2000年に手頃な価格のヨーロッパ型規格住宅「インターデコハウス」を世に出して20年以上経ちます。

輸入住宅という市場も海外の生活への憧れで一世を風靡しましたが、いかんせん世代が変わってきました。

国内の建材メーカーもかなり欧米化しましたし、商品も洗練されました。

インターデコハウスの全盛期では毎年新しいデザイン、それに必要なオリジナル建材開発に追われていました。

それはそれで楽しい仕事ではありましたが、現場の施工難易度を上げてしまったり、納期を待っていただいたりと付加価値以外の負のストレスが生じたのも事実です。

時代の変化と顧客ニーズの変容

世代が変わると同時に、文明も変わります。

固定電話がiPhoneに変わり、テレビ、ラジオよりYOUTUBEが情報の発信をしています。

つまり時間の使い方が変わり、価値が変わりました。

わたくし共も海外志向のライフスタイルは維持しつつ、世代に寄り添う住宅に進化させてきています。

プレカット技術も金物もほぼ平準化され、断熱も気密も計画換気も当たり前の世の中になり、購買層の欲求ニーズがシフトし始めたのが2011年以降です。

その数年前からデフレ傾向が蔓延しだしていました。

大震災~原発事故で、購買層の深層心理がモノ一辺倒のブランド志向から自分たちを守ってくれる、つながりを大切にして地域に密着する住宅会社をパートナーとしてコト欲求志向に変化しました。

ジョンソンパートナーズの変化

こういった市場環境を分析して2012年以降の私どもの支援メニューは大きく変わり、単に商品での差別化で商売を助けるのではなく、地元で愛される住宅会社を目標に次代を継承される若い経営者、若いスタッフを育成していく支援メニューを提案、提供、実践していきます。

エリアでのファン層づくりの為、ウェブ広告、SNS対策を駆使するマーケティングスーパーバイザーと事業目標達成のための経営支援スーパーバイザーを加盟店ごとに配置して共に目標達成に向かう完成されたシステムは他のFCにはありません。

加盟されると広告担当と営業部長が加盟店に自動的に配置されることになるわけです。

いまどき、この二つの戦力を採用するのは至難の技です。

そんな挑戦と進化を恐れないジョンソンパートナーズを誇りに思います。

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