BIOGRAPHY
1964年(昭和39年)12月、東京都豊島区で生まれました。 幼年期は下町の荒川区で過ごし、小学校に入学する直前に埼玉県に引っ越しました。下町に居た頃の私の写真です。
母が叔母と美容室をやっていて、さながら、マスコットボーイでした。 小学5年の秋まで東武東上線沿線の小さな町で過ごし、その後、春日部に転居。 あのアニメで有名な街です。 小学・中学ではバスケ部に所属していました。また、小学校では児童会⻑、中学校では書記と、 生徒会活動も行なってる活発な学生でした。
高校では、栃木県佐野市にある佐野日本大学高等学校へ。 日大にはちょっとした縁があって、私学に行くなら日大と決めていました。
第一志望は都内の高校だったので、ここで人生初めての挫折感を味わいました。 平日は朝5時に起きて、始発電車に乗っての遠距離通学。 バスケットボールを継続したかったのですが、 遠距離通学が故断念して同じ春日部駅利用の先輩から誘われてフォークソング部へ入部しました。
このフォークソング部での経験は、後の接待カラオケに役立つことになります。 高校時代も生徒会活動を行ない大親友とツートップを張りました。
大親友が会⻑で私が副会⻑。 写真は馴染みの居酒屋でのツーショット、竹馬の友とはこういうことなんでしょうね。 大学は系列の日本大学へ。理工系を志望していましたが、建築学科へ進学。 都内の学部を志望していましたが本番に弱くライバルに負け、福島県郡山市にある工学部へ。
ここで2回目の挫折感を味わったわけですが、とても有意義なキャンパスライフを過ごすことになりました。 かの、故建築家清家清氏の言葉に、「建築は住宅に始まり住宅に終わる。」とありますが、 卒業研究で住宅の街並みについての研究を行なったことが、今の私の原点と言えると思います。
ちなみに、日本におけるフランクロイドライト氏研究の第一人者である谷川正⺒氏が、 当時学内に教授としておられ、谷川先生の⻄洋建築史の授業を受講していました。 あの時もっと真面目に受講していれば...と思う今日この頃です。
大学では、学業の傍ら体育会ラグビー部に所属していました。 オジサン4人で写っている写真は、数年前に部の先輩とラグビー観戦に行った時の写真です。
ラグビー通の方はお判りでしょうが、ユニフォーム姿の男性は日本ラグビー界のレジェンドの一人、 元日本代表東芝ブレイブルーパス所属の大野均選手です。 大野選手は私たちの部の出身で、私たちの誇りです。
100キャップまであと2キャップなのに...。 就活は、当初、親戚のコネを使って某大手ゼネコンへの就職を画策しましたが、 意外やコネが弱くまた、学士では先々難しいだろうと判断して卒論でお世話になった教授の勧めもあり、 地元の住宅会社にエントリーして即内定となりました。
そして、晴れの社会人デビュー。 内定中も入社直後の研修時も、一貫して営業職には就きませんと宣言していましたが、 適性はさておき当時の会社の諸事情により注文住宅事業の営業部門に配属されました。
配属先は本社のお膝元で、毎月目標達成しているトップ店舗、終わった...と思いました。 そんな私でしたが、負けん気が強いのが功を奏し、また諸先輩方の指導の賜物で 一年が終わってみれば新人賞をいただくことが出来ました。
写真は、理工系学生リクルート用のパンフレットに使われた写真です。理工系でも営業職という、一つの見本的な立ち位置でした。営業部門に5年・工務部門に2年・企画部門に1年在籍して、思うところがあり最初の転職に臨みました。
企画部門在職時に出会った輸入住宅、この出会いが今の私に通じています。30代の私はよく言えば自分探しの旅で転職を繰り返していました。ヤマチユナイテッドグループへの入社は2009年3月。
入社のきっかけは、前職で仕事の一環で行なっていたブログで代表の山地章夫を知り、先ずはファンになりました。面白そうな社⻑さんだな〜と。 その後、諸事情により前職を辞する判断をした時に、先ずはあの社⻑の会社の話を聞いてみようと思いエントリーしました。そして内定。
入社当時はインターデコハウス単体のフランチャイズ本部でしたが、マルチブランド展開するフランチャイズ本部に 生まれ変わりました。
私の経験職
- 注文住宅の展示場営業
- 工務部門で新築住宅の現場監督
- 企画部門で広報宣伝・商品企画・営業マン教育他
- 幾つかの住宅会社にて、マネジメント職。
- 新規加盟開発・加盟店様の営業支援
大小様々な事業規模の会社での実務経験がありますので、実情に沿ったお話が可能です。